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失はれる妻 ~1~

目が覚めると、周りは漆黒の闇だった。
今は、夜中なのだろうか?
隣に寝ているはずの妻を見ようとしたが、頭が動かない。
いや、頭だけではなかった。
腕も足も、ぴくりとも動かすことは出来なかった。

夜の闇なら、目が馴れてくるはずだが、一向に何も見えては来ない。
俺は夢の中にいるのだろうか。それとも金縛りにでもあっているのか。
だが、それから数分間が経過しても状況は変わらなかった。
自分は確かに起きている。だが、身体は動かず、目も見えない。
恐怖が襲ってきた。妻に呼びかけようとする。声が出ない。
俺はパニックに陥った。しかし、絶叫することも暴れることも出来ないのだ。
必死に状況を把握しようとする中で、記憶が少しずつ戻ってきた。
俺は、いつもどおり通勤するために朝、家を出たはずだった。
少しばかり遅れていたため、交差点で青信号が点滅しているのを見て、
俺は駆け出した…
そこで、記憶が途切れていた。
身体は全く動かせないが、意識だけはしっかりしていた。
それから、耳は聴こえることに気付いた。
何かの機械が、自分のすぐ傍で動いているような音がするのだ。
俺は恐怖に耐えながら、この状況に変化が訪れるのを待った。
妻の顔が、頭に浮かんできた。

どれくらい経っただろうか。
俺の身体の右側で、ドアが開くような音がした。
そして、足音が近づいてくる。足音は俺のすぐ傍で止まった。
俺は必死で目を開けようとするが、何も見えない。
「…あなた」
声がした。紛れもなく妻の声だった。不覚にも涙が出そうになる。
妻の手が、俺の腕に触れる。胸に触れてくる。いたわるように。
咲子、声が出ないんだ。お前が見えないんだ。
俺は必死で叫ぼうとするが、何も出来ない。


「あなた、私の声が聞こえる?」
咲子が言った。相変わらず、妻の手は俺の身体に優しく触れている。
「今日は、あなたの誕生日よ」
誕生日?何を言ってるんだ。俺の誕生日は1月だが、まだ今は4月の筈だ。
「もう1年以上も眠ったままで…私をほったらかしにして」
咲子の声は優しかった。
1年以上?眠ったまま?どういうことだ。
「明日は、またあなたをこんな風にした人に会わなきゃならないの」
咲子は、俺の必死の呼び掛けにも気付かず、話を続ける。
「私は会いたくないけれど…事故の示談に必要だって言うからしょうがないね」
俺はじょじょに、自分の置かれている状況を把握し始めた。
あの交差点で、俺の記憶が途切れている。そして、今の咲子の話からすれば。
俺は、交通事故に遭ったのだ。車に跳ねられたのだ。そうに違いなかった。
俺は今、病院のベッドにでも横たわっているに違いない。
機械の音がするのは、俺の身体に人工呼吸器やらが取り付けられているからなのか。
その時、俺の頬に、咲子の手が触れた。咲子の手は暖かだった。
だが、一箇所冷たい部分があり、それは薬指の結婚指輪なのだと分かった。
咲子の手は、俺の顔を撫でた。額を、頬を、鼻を、唇を。
「……あなた」
咲子の唇が、俺の唇にやさしく重なった。
「愛してるわ」
そして、俺の頬が濡れた。咲子の涙だった。
咲子への愛しさが俺の胸に溢れた。
事故に遭って、植物人間のようになった俺を、1年以上も咲子はこうして
見守っていてくれたのか。
だが、今、俺の意識は戻った。咲子、咲子。お前を抱きしめてやりたい。
俺は起きているぞ、お前を抱きしめてやりたい。思い切り。
俺は、必死で身体を動かそうとした。
だが、身体は1ミリたりとも、動かなかった。


それから、俺は色々な事実を知っていった。
病室で医者と咲子が話していることを聞いたり、俺のお袋、義父、義母が
見舞いに来たときの会話、そして咲子が毎日毎日、俺に語りかける話から。
俺はやはりあの日、あの交差点で、車に跳ねられたのだという。
奇跡的に一命はとりとめたものの、意識は回復せず、俺は完全な植物人間状態だと
診断された。
それから、咲子は毎日俺の病室を訪れて俺を看護している。
俺の療養費は、今のところ保険などで何とか補うことが出来ているらしかった。
だが、俺はその間、地獄のような苦しみに苛まれていた。
俺の意識ははっきりとしており、身体の感覚もある。
だが、1ミリともその身体を動かすことが出来ないのだった。
つまり俺は、意識だけの肉塊と化している。
どれほど咲子に、話し掛けてやりたいことか。
だが、時間は無情に過ぎていく。3ヶ月、半年…。
やがて俺の心は深い絶望と、咲子に対する申し訳なさに支配されていった。
咲子とは大学の水泳部で知り合った。結婚するまで5年間、付き合った。
彼女の持ち前の明るさと、どんな時も前向きな姿勢に俺は惹かれた。
水泳の力量もなかなかのもので、大会では必ず上位に入る成績を収めた。
小ぶりな顔立ちは美人の部類に入るし、水泳で鍛えた肉体はカモシカのように
引き締まっていた。当然、彼女に憧れる男子部員は多かった。
だから、俺の告白を彼女が受け容れてくれた時は、有頂天になった。
他の男たちから羨まれ、恨まれもしたものだった。
俺に抱かれるまで、彼女は処女だった。
はじめて彼女をベッドで裸にした時は、その均整の取れた肢体に見惚れた。
最高の女性と出会えたことを、運命に感謝したものだ。
「…恥ずかしいよ、あんまり見ないで…」
恥じらいながら俺に身体を開き、処女を捧げてくれた夜の可憐さは忘れられない。
大学を卒業し、俺は経済的に自立できる自信が付いたところでプロポーズをした。
結婚して、まだわずか1年しか経っていなかった。
咲子も地元の広告代理店に勤め、持ち前のガッツで職場での評価も高いようだった。
だから、子どもをつくるのは、もう少し先にしようと話し合っていた。
俺は咲子を深く深く愛していた。いや、愛している。



そんな咲子に俺は話し掛けることも、何かを伝えることも出来ない。
彼女の姿をせめて見ることすら、暗闇の世界で叶わない。
出来るのは、ただベッドの上に横たわり、彼女の話を聞くことだけだった。
「ねえあなた、今日は、面白いことがあったのよ」
彼女は毎日、退社してから病院にやってくる。
そして、面会時間が終わるまで、ずっと俺に寄り添い、語りかけてくれる。
帰る間際、彼女は必ず俺の頬を左手で撫でた。
咲子の掌の暖かさと、左手薬指の結婚指輪の感触が伝わる。
それから、彼女は、俺の唇に、そっとキスをし、病室を出て行くのだった。
ある日、咲子と俺の父親が、同じ病室にいる時があった。
「なあ、咲子さん」
親父は咲子に語りかけた。
「咲子さんには本当にありがたく思っている。事故の後、これほど献身的に
コイツに尽くしてくれて…」
親父が何を言おうとしているのか、だいたい見当はついた。
「だが、コイツがこうなって、もう2年になる…。咲子さん、あんたはまだ
若いし、将来がある。いつまでもコイツの面倒を見てくれなくても」
「お義父さん」
そこで、咲子が親父を鋭く遮った。
「…この人の前で、そんなことを言わないで下さい。私、この人の妻です」
「…咲子さん」
「お義父さん、それに私、あなたの娘です」
咲子の声には、何ものにも揺るがない強い意志が宿っていた。
俺は大声で泣きたかった。だが、涙が出ない。
泣くことが出来れば、咲子に、俺が目覚めていることを伝えてやれるのに。

過ぎていく日々は、俺には永遠とも思える責め苦だった。
今日が何月何日であるかは、咲子がいつも教えてくれた。
事故から2年半が過ぎた。もう殺してくれ。何度もそう思った。
だが、死ぬ前に、咲子にもう一度、愛していると伝えたかった。
咲子は病室に様々なものを持ち込んだ。
俺との思い出の曲が入ったCDを流したり、写真アルバムを持ち込み、
俺に見せながら(もちろん俺には見えないが)ふたりの思い出を語る日もあった。
咲子。もういいんだ。俺は生きる屍だ。俺にもう関わるな。
お前の人生がメチャクチャになってしまう。俺のことを忘れろ。
俺は咲子が語り掛ける言葉を聞きながら、心の中で必死に叫んでいた。
だが、俺は結局、そんな咲子に甘えていたのだ。
こんな俺でも、咲子は決して見捨てないでいてくれると思っていたのだ。
そのことを、俺は、思い知らされることになる。


咲子の口数が少ない、と俺は思った。
いつも病室で、咲子はどうでもいいようなことまでを俺に話し掛けたが
その日は、俺の傍で黙り込む時間の方が多かった。
俺をじっと見つめているのだろう気配が伝わってきた。
咲子の手が、俺の頬に触れた。
「…あなた」
咲子は言った。
「…私の声が聞こえてる?…それとも、聞こえてない?」
聞こえてる、聞こえてるぞ、咲子。ずうっと俺はお前の話を聞き続けてるぞ。
「明日、私の誕生日だよ」
そうだ。明日は、8月31日。咲子の27回目の、誕生日だ。
夏休み最後の日が誕生日のため、子どもの頃は宿題のやっつけに忙しくて
親も自分も誕生日を忘れてしまうことがあった、と咲子は笑っていた。
「…27歳になるのよ、私」
咲子の指が、心地よく、優しく俺の頬を撫でる。
「……あなた、起きて」
俺は驚いた。この3年近く、咲子は俺に起きて、と言ったことはなかった。
どうしたのだろう。咲子の声に、いつもの元気がない。
ぽたり、と俺の頬に、水滴が落ちるのを感じた。
涙だ。咲子が泣いている。どうして?
「おねがい…あなた。起きて」
俺は必死に身体を動かそうとした。もう何万回、いや何十万回も試みた行為だ。
だが、やはり俺の身体は全く俺の意志に応えてくれなかった。
やがて、咲子が小さなため息を衝くのが聞こえた。
「…ごめんね、無理言って。ダメだよね、私」
ぐすっと、咲子が小さく鼻を啜り上げる音がした。
「明日ね…ここに来るのが少し遅くなっちゃうかも知れません」
明日は土曜で、休日のはずだった。
「出来るだけ早く来るから…ごめんね」
休日は早い時間から咲子は来てくれるのが常だったが、何か用事があるのだろうか。
せっかくの誕生日なのだから、俺は何も出来ないにせよ、
彼女の誕生日を、一緒に過ごしたかった。
だが、咲子はそれ以上、俺に何も語ろうとはしなかった。
ただ、じっと俺を見つめている気配だけが、伝わる。
そして、長い沈黙ののち、彼女の唇が、俺の唇に触れた。
「…あなた、愛してるわ」
だが、その言葉はいつもと違い、まるで自分に言い聞かせような調子を帯びていた。
そして次の日。咲子が、俺の病室を訪れることはなかった。


その日以降、咲子が病室へやって来ない日が、時折見られるようになった。
来た時も、俺の傍に黙って座っている時間が増えた。
咲子、どうしたんだ?いつものように色々な話をしてくれ。
どんなことでもいいんだ。今日は何があったか、俺に教えてくれ。
咲子がしゃべる時、懸命に、明るく語り掛けようとしているのが伝わってきた。
3年も感覚のみで生きている俺には、そばにいる人の語り口で、その感情が
おおよそ分かるようになってきていた。
咲子は、以前とは違い、やや無理をして俺に明るく接しようとしている。
咲子は悩んでいる。苦しんでいる。そのことがもはや明らかだった。
咲子を苦しめているのは、俺の存在以外になかった。
3年間も眠ったまま、そしておそらく、今後何十年もこのままであろう俺の存在。
それが、咲子の人生の足枷になり、咲子を苦しめ出しているのだ。
俺は恐怖した。
俺のことは忘れろなどと思っていたが、実際に咲子の中に俺を疎ましく思う気持ちが
生まれることを思うと、これ以上の絶望と恐怖はなかった。
俺は咲子を深く愛していた。俺には、咲子しかいないのだ。

ある日、俺の傍に座っていた咲子の携帯が鳴った。
病室で咲子の携帯が鳴るのを聞いたことがなかったから、これまでは
バイブレーションにしていたのだろう。
やたらと甘いメロディの着信音だった。
咲子が慌てて、携帯を操作する気配が伝わった。
「…はい。あ、はい、うん、ちょっと待って」
咲子が椅子から立ち上がる音がした。
明らかに咲子は狼狽していた。
俺のほうを見やる気配があり、急ぎ足で咲子は病室を出て行った。
誰からの電話だろうか。
俺や咲子の両親、咲子の友人となら、別に病室を出て行く必要はない。
実際、これまでも携帯で咲子がここで話しているのを何度も聞いている。
5分ほどしてから、咲子は戻ってきた。
だが。椅子には座らず、俺の傍らに立ち、俺を見つめているようだった。
「…あなた、ごめんなさい、今日は帰ります」
咲子の手は、俺の頬に触れなかった。いつもの優しい口づけもなかった。
バッグに荷物をしまう音がして、咲子は病室を出て行った。


その日、咲子の会社の上司らしい人間が病室を訪れていた。
俺は、今では咲子の扶養家族になっているらしく、お見舞いを兼ねて
直属の上司と、総務部長がやってきたということらしかった。
「私、お茶でも淹れてきます」
事務的な話が終わり、咲子が病室を出て行った。
少しの沈黙があった。人工呼吸器に繋がれた哀れな男を彼らは見ているのだろう。
「…しかし、この人も気の毒にね、この若さで」
上司らしい男が言うと、総務部長がそれに答える。
「もう3年っていうから、ずっとこのままだろうね。気の毒ではあるけど、
会社の保険料の負担を考えると、お荷物だね」
「まあ、彼女は有能だから。面倒みてくださいよ」
「離婚しないのかね。彼女は若いし、いつまでも義理立てする必要ないだろうに」
総務部長が言うと、上司の男が、やや声を低くした。
「離婚は…近いうち、あるかも知れませんね」
「へえ?そうなの?」
「プライベートだから、ここだけの話ですが…デザイン部の尾形部長」
「尾形くん?あの女誑しで有名な、独身貴族かい?」
「…ええ。彼女、手をつけられちゃったみたいで」
「本当に?信じられないな…彼女ほどしっかりした女性が」
「社内では、もう既定事実ですよ」
「へえ…尾形くんは、女癖悪くて有名じゃないか」
「上司としても心配してるんですが。前からかなりしつこくアプローチされて…
断っていたみたいなんですけどね」
「それがどうして?」
「押し切られたんでしょう。噂では彼女の誕生日に、酔わせて強引にモノにしちまった
らしいですよ」
「困ったもんだねぇ、尾形くんの女遊びにも。彼女は形式上、人妻だろうに」
「まあ、旦那がこのありさまじゃ、訴えられることもないでしょう。今じゃ、彼女の
方が夢中になっちまって…メロメロだって噂ですしね」
「そうなの?」
「ここだけの話、最近は、尾形部長のマンションに…通い妻状態らしいですよ」
「驚いたね。しかし彼女は美人だし…羨ましいな、尾形くんが」
「彼はあっちが絶倫だって話ですし。彼女もさぞヒイヒイ泣かされてるんでしょ」
下卑た笑いが起こったが、咲子が戻ってくる気配がして、二人の会話は途切れた。
お茶を出された二人が帰っていく頃になっても、俺は混乱から立ち直れずにいた。
今の話は、一体なんだ。どういうことだ。尾形?そいつは誰だ。
咲子の口からそんな名前は聞いたことがなかった。
誕生日に酔わせて、強引に? 今では咲子のほうが夢中?
混乱する俺の身体を、不意に咲子の柔らかい手が撫でた。
「…あなた、身体、拭きますね」
咲子が、いつものように熱いタオルで俺の身体を丁寧に拭き始めた。
いつもと変わらない咲子の様子は、逆に俺の焦燥を掻き立てていく。
どうなっているんだ、咲子。今の話はなんだ、本当のことなのか?
お前は、俺じゃない男に、もう抱かれてしまっているのか?
だが、俺の叫びと不安が彼女に届くことはなかった。

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