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失はれる妻 ~2~

それから、さらに2ヶ月ほどが過ぎた。
咲子が来ない日は、確実に増えていた。
一週間のうち咲子が来てくれるのは3日ほどになっていた。
俺ももう、咲子に男の影があることを疑っていなかった。
おそらく、あの上司と総務部長が話したことは、事実なのだろう。

最近の咲子は、俺の傍で、じっと椅子に腰掛けている。
咲子の苦しみが、懊悩が、俺には伝わってきた。咲子は俺に真実を伝えたいのだ。
だが、どうしてもそれが出来ずにいる。
俺という夫がありながら、しかし、どうしようもなく他の男のものになっていく
自分を、許せずにいるのだ。
咲子は、相変わらず俺の身体を優しく撫でてくれた。
だが、咲子の唇が、俺の唇に触れることは、いつの間にかなくなっていた。
そしてある日、俺は気付いた。
咲子の手が俺の頬を優しく撫でる。だが、違和感があった。
なんなのだろうと考えて、すぐに気付いた。
指輪だ。
咲子の左手の薬指にあるはずの、結婚指輪の感触がなくなっていた。
大きな衝撃だった。
咲子が、俺との結婚指輪を外した。おそらくは、自分の意思で。
どこかに、諦めている俺がいた。仕方がない。3年半だ。
3年半も、咲子は、物言わぬ夫に尽くし、回復を待ち続けたのだ。
咲子ほどの女に、言い寄る男がいないわけがない。
咲子も人間だ。俺の世話に疲れ、そこに上手につけ込まれれば、気持ちも
揺らぐだろう。
そしてあの誕生日の夜、尾形という男に…咲子は、身体を開いたのだろう。
俺は死を望んだ。この世界に、何の望みもなくなっていくのを感じていた。
「…あなた」
不意に咲子が言った。俺の頬を優しく撫でていた手が、ゆっくり止まる。
「…私ね」
出来るならば俺は、耳を塞ぎたかった。聞きたくない。やめてくれ咲子。
だが、無情にも彼女の声は、確実に俺の耳に届いてきた。
「……好きなひとが、できたの」
咲子の涙が、ぽた、ぽた、と俺の頬に落ちた。
「…ごめんなさい」
それからしばらくの間、咲子の嗚咽だけが、病室に響いていた。


尾形という男が病室にやって来ていた。
「この人が、旦那さんなんだ」
そう言った。野太い声だった。自分に絶対の自信を持っている、そんな印象の声だ。
咲子がこの男を病室に連れてきたのだった。
「これ、お見舞いの花」
「…ありがとう」
尾形が、咲子に花を手渡したようだった。
他人の女房を寝取っておきながら、お見舞いもないだろう。
俺の心に、ざわざわと赤い色をした怒りが湧き上がる。
身体さえ動かせれば、この男の顔面を思い切り殴りつけてやりたかった。
「この状態で、3年半?」
「…うん」
「そりゃ大変だ。もうイヤになったろ?」
「…馬鹿言わないで」
尾形の、咲子に対する口調の馴れ馴れしさに腹が立ったが、咲子も、
尾形に対して丁寧語を使っていなかった。ごく親しい者同志の口調で話している。
そのことが俺の嫉妬心を燃え上がらせた。胸を掻き毟られるようだった。
いつから、咲子はこの男とこんな調子で話すようになっていたのだろう。
「まあ、やっと連れて来てくれて、礼を言うよ。挨拶しときたかったしな」
「…」
「もう旦那さんに、咲子から報告した?」
報告? いったい、なんの報告だ。
「…旦那さん、俺は尾形と言います。咲子と同じ会社の。聞こえますか?」
「ちょっと、やめて」
咲子が、慌てたように尾形に抗議した。
「咲子。けじめをつけなくちゃダメなんだって、何度も言ったろ?」
尾形の声が少し厳しくなった。咲子が息を呑み、黙り込むのが分かった。
少しの間を置いて、尾形が言った。
「来月、咲子を、俺の嫁にもらうことにしました」
なんだって?咲子を?嫁に?ふざけるな、そんなことが…出来るものか。
「…ねえ、もうやめて」
咲子は、涙声になっていた。
俺は人生でこれほどの怒りと、絶望を感じたことはなかった。
こんな粗暴な男に。俺の咲子が。俺の妻である咲子が。
「やめて!私が言うから」
咲子は悲鳴に近い声で言った。
頼む、神様。俺の身体を動かしてください。お願いします。


「…あなた」
咲子の気配が近づく。その手が俺の頬に触れた。
いつもの、優しく柔らかい、咲子の手だった。
「ごめんね…驚かせて」
「あなた、ってのはもうやめろって言っただろ?特に俺の前ではやめてくれよ」
尾形が叱るように言い、咲子の手が、びくりと震えた。
「…耕ちゃん、ごめんね」
咲子は、俺を、恋人時代の呼び方で、呼んだ。
俺は思い出していた。
『ねえ耕ちゃん、結婚したら、私、耕ちゃんの事を“あなた”って呼ぶからね?
旦那様を“あなた”って呼ぶのがずっと夢だったんだもん』
咲子は、結婚前にそう言って、明るく笑っていたものだった。
少女趣味だなあ、と俺は笑ったものだったが。
その咲子が、俺を“あなた”と呼ぶことをやめた。
咲子にとって“あなた”と呼ぶ相手はもう、俺ではなくなったのだ。
それは、あまりにも残酷な、無惨な現実だった。
「耕ちゃん…私……結婚したい人が、います…ここにいる尾形…さん」
「お義父さんと、お義母さんには、おととい…挨拶に行ってきました」
なんだって? 俺の両親に? 話はそこまで進んでいたのか。
俺の絶望は行き付く先が見えないほど、深いものになっていた。
夫が植物人間であれば、家族の同意で離婚も可能なのだろうか?
俺は虚しく、そんなことを考えていた。
「ごめんね…わたし、耕ちゃんを…支え続けけられなかった」
「悪い奥さんです…ごめんなさい…耕ちゃん」
涙声で、咲子は、俺に謝罪を繰り返した。
もういい、やめてくれ、咲子。お前が悪いんじゃない。
そして俺をこれ以上苦しめないでくれ。この男と出て行ってくれ。
「咲子、もういいって。お前が悪いんじゃないんだからさ」
尾形の声がした。
ぐい、と衣擦れの音がした。
「…あ」
咲子の声がする。
俺には分かった。尾形が、俺の前で、咲子を抱き寄せたのだった。


「…やめて」
咲子が、か細く抵抗する声がした。
「俺、なんか興奮してきたよ、咲子」
「…ば、馬鹿言わないで」
ぐい、ぐい、と音がした。尾形が咲子を抱きすくめようとしている。
「…ちょっと、ふざけちゃイヤだってば」
「いいだろ? 旦那への義理はもう果たしたんだからさ」
「…やだ、やめてっ」
「騒ぐと、看護婦さんとか来ちゃうぜ?」
尾形の声に、咲子が怯んだようだった。
「……んむぅ…っ」
咲子のくぐもった声がした。しばらくの沈黙が訪れた。
やがて、んふぅ、ふぅ…という尾形の鼻息が聞こえてくる。
咲子が怯んだ隙を衝いて、尾形が咲子の唇を奪ったのだろう。
強引に抱き寄せられた咲子が、可憐な唇を吸われている残酷な姿が見えるようだった。
しばらくして、はぁ、はぁ、という咲子の吐息が聞こえた。
「…こういうシチュって、興奮するよ、咲子」
尾形が言った。
衣擦れの音が激しくなる。
「…だ、だめっ…なにする…のっ」
「いいだろ、咲子。俺、ちょっと我慢できないわ」
「…ふ、ふざけないで…あ、んっ!」
「咲子っ」
「だ…めぇ」
俺にとって、地獄のような時間が過ぎていった。
どれほどの責め苦を与えられようと、これよりはよほどマシなはずだった。
尾形は、俺の寝ている傍らで、咲子を凌辱した。
咲子の抵抗の悲鳴が、やがて、甘い艶と媚びを含んでいくのを俺は聞いていた。
植物人間となった夫が寝ているベッドの傍で、咲子は抱かれていった。
「あ、あぁん…尾…あなたっ」
咲子はやがてそう言った。二人きりのときは、もうすでに“あなた”という
呼び名は、尾形のものになっていたのだろう。
「…舐めろよ、咲子」
尾形がそう言うと、ぴちゃぴちゃ、という舌の音と、吸い立てるような音が響いた。
「…んふうっ」
咲子の声。堪らずに漏れてしまう、といった生々しい鼻息。

尾形の凌辱は、どのくらい続いたのだろう。
いや、それはもはや、凌辱ではなかった。
咲子は、俺の最愛の妻は、俺が見たこともない尾形という男に自ら身体を開いていた。
「手をつけよ」
「…ど、どこ?」
「…ベッドでいいよ」
「だめよ」
「はやくしろって。もう待ちきれないんだから」
そんな会話の後、咲子が、俺のベッドの縁を両手で掴んだようだった。
「入れるぞ」
尾形の声がした。その後、グチュ…という淫らな音が部屋に響く。
「あ…っ!…」
尾形の荒い息が響いた。咲子も同じだった。
やがて、ギシ、ギシと音を立てて、俺のベッドが揺れ始めた。
「だ…めっ、ベッドが…耕ちゃんが…」
咲子がそう言った。
「大丈夫だって。固定してある頑丈なベッドだ。ほら、もっとケツを突き出せって」
「あぁ…はい…」
そして、尾形が、咲子の尻に腰を打ち付けるパン、パン、という音が響く。
俺のベッドも小刻みに揺れ、咲子の膣から漏れるのだろう、グチュ、グチュ、グチュ
という淫らな恥ずかしい音が、病室に響いた。
「あ、ぁ、だめ、もう、イク、いっちゃう…あなた…っ」
絶頂に追い上げられていく咲子の、断末魔の声が聞こえた。
「声出すなよ、誰か来ちまうぞ、はぁはぁ、はぁ、出すぞ、中に」
「んーーーーっ……」
ひときわ大きくベッドが揺れた。尾形は、咲子の膣内に射精したようだった。
絶頂を迎えた咲子が、ずるずると床にへたり込むのが分かった。
それからしばらくの間、荒い息が響いていたが、やがて、ふたりがキスを交わす
ちゅっ、ちゅっ…という音が聞こえてきた。
「どうだよ?よかったろ?」
「…無茶よ…バカ…もう…」
咲子が小さく抗議する声がした。
だが、その声は甘かった。男のものになることを認めた女のそれだった。
二人はやがて身づくろいをすると、尾形が先に病室を出て行った。
そして、咲子がゆっくりと、俺の傍に立つ気配がした。
「………最低の、奥さんになっちゃったよね…わたし」
「ゴメンね。耕ちゃん…わたしを、恨んでね…」
「……さようなら、耕ちゃん…」
足音が遠ざかっていった。
そして、俺の最愛の妻は、永遠に失われた。

どれくらいの時間が流れただろう。
言葉どおり、咲子がもう俺の病室を訪れることはなかった。
あれから、もう1年以上が過ぎている。
俺の心は既に死んでいたが、肉体はまだ活動をやめようとしなかった。
俺が望むのは、やがて訪れる死だけだ。
今では、俺の両親が、定期的に俺を見舞いに来るようになっている。
今日も、病室に親父がやって来た。
以前の咲子のように、今では父や母が、椅子に座って俺に語り掛ける。
「…耕一」
親父がぼそりと言った。その声に、最近、張りがなくなった気がする。
「咲子さんがな」
その声に、俺の死んだ精神が、ぴくりとわずかに反応する。
「…最近、赤ちゃんを産んだそうだ。女の子らしいよ」
咲子が。尾形の子を、産んだのか。
「丁寧な手紙をもらったよ。これだ」
親父は、咲子から送られてきた手紙を取り出して、読み始めた。
長い手紙だった。最後のくだりを、親父は少し泣きながら読み上げていった。

 …わたしは今、とても幸せに暮らしています。
 でもお義父さんとお義母さんに、とても辛い思いをさせてしまったことは
 わたしの永遠の罪だと思いながら、日々を過ごしています。
 わたしは、今の自分を精一杯生きることで、罪を償うしかありません。
 わたしと夫の間に生まれた子ですが、お義父さんとお義母さんの孫でもあると、
 勝手に思っています。ごめんなさい。
 もし、許してもらえるならば、いつかこの子を連れてお伺いさせて下さい。
 耕一さんの最近のご様子は如何ですか?お見舞いにお伺いしたい気持ちがあります。
 でも、まだ怖くて踏ん切りがつきません。申し訳ありません。
 こんなことを言えた義理ではないのは分かっていますが、
 わたしは耕一さんのことを、心から愛していました。
 あの事故さえなければ、きっと耕一さんの幸せな妻として暮らし続けていたと
 思います。いまでも耕一さんのことを愛しています。
 お義父さん、お義母さん、本当に申し訳ありません。
 わたしの我儘を許して頂いたことを、一生、忘れずに生きていきます。
 季節柄、お風邪など召されませぬようご自愛下さい。かしこ。 尾形咲子

俺はもう動かせない身体の全身で、泣いていた。身を震わせて、泣いていた。
最愛の妻を失い、人生を失い、すべてから見捨てられた男の、哀れな慟哭だった。
だが、俺の肉体は、何の感情も見せずに、病室に横たわっている。
俺はこの地球上で最も深い絶望を抱きながら、しかし、こんな俺を愛そうとしてくれた
咲子の幸福だけを願い、暗闇の渕に沈んでいった。

(了)

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